赤井英和



赤井英和(あかいひでかず 1959年8月17日生)
 [俳優/元プロボクサー]


 大阪府出身。戦国武将「丹波の赤鬼」こと赤井直正の子孫にあたる。中学・高校時代は喧嘩に負けた事がなく、大阪一帯にその名は響き渡っていた。自分より弱い者には全く手は出さず、常に「ここで一番強いの誰や! 勝負せい!」といった道場破り的な喧嘩を繰り返していたとされている。しかし、自伝などによれば、両手の指に数えられるくらいしかしたことがないと主張をしている。公立高校の併願では住吉高校を受験しており、同学年であった北村雅英(トミーズ雅)にその姿を目撃されていた。ただ一人不良丸出しの学ラン姿で受験に来ており、しかも机の上に足を投げ出して弁当を食べていたので相当目立っていたらしい。その時お互いが誰であるかは知らなかったものの、血気盛んな双方はメンチを斬り合って一触即発の危機となる。受験会場ということもあって喧嘩は回避されたが、後日、雅はそれが赤井であったことを知り「喧嘩せんで良かったー」と安心したと同時に、赤井の不合格を祈ったと語っている。合格発表の際、自分の受験番号よりも先に赤井の受験番号を探し、赤井の不合格を見つけ、ホッと胸をなで下ろしたという。奇しくもこのとき出会った二人は、後に同じボクサーから芸能界への道を歩み、さらには友情を築くことになる。雅はスーパーウェルター級のランカーであり、赤井が所持していたスーパーライト級より重い階級である。なお、一度だけ赤井と雅はスパーリングを行った事がある。先輩でなおかつ階級が下の赤井に教えてやろうと思ったが、赤井の左ジャブを浴びる度にこん棒で鼻を突かれるような衝撃を受け「こいつには勝てない」と悟ったという。

 浪速高等学校入学と同時にボクシング部で活躍し、3年生にライトウェルター級でインターハイ、アジアジュニアアマチュアボクシング選手権を優勝した実績を引っさげて、近畿大学進学。モスクワオリンピックでも日本代表は確実視されたが結局補欠にとどまる。その後、いわゆる東西冷戦のあおりを受けての日本代表の出場辞退(ボイコット)により、モスクワオリンピック出場への道を完全に断たれたことから学生プロボクサーに転向することが決まり、1980年9月愛寿ボクシングジムに入門。アマチュア時代は、新進ボクシングジム(現新日本大阪ボクシングジム)に、在籍していた。

 プロになってからの赤井は、プロ4戦目の全日本新人王決定戦では尾崎富士雄に3RKO勝ちしジュニアウェルター級全日本新人王を獲得、その後も攻撃型ボクサーとして当時の日本記録であるデビュー以来12試合連続ノックアウト勝ちという快挙を成し遂げ、その試合スタイルから「浪速のロッキー」という愛称が付いた。強打を武器に世界タイトル獲得も時間の問題とまでいわれ、試合後のユニークなインタビューのコメントも人気を呼び、ノンタイトル戦ながら全国中継で取り上げられるまでに注目を集めた。当時関西出身の世界王者渡辺二郎よりも赤井の人気と知名度は高かった。

 1983年7月7日、近畿大学記念会館で行われたWBC世界スーパーライト級タイトルマッチで、アメリカのブルース・カリーに挑戦。試合前日の記者会見で「7月7日やから7回に倒してパチンコのフィーバーにしたる」と宣言していたが、皮肉にも第7ラウンドでTKO負けを喫してしまい、世界タイトルは逃してしまった。まもなく敗戦のショックにより、引退をほのめかすような一筆を残して失踪。しかし、数日後現役続行を決意する。

 その後、赤井は再び世界を目指すべく再起をかけることになり、2度目の世界タイトルを目指そうとした前哨戦として、1985年2月5日に開かれた大和田正春との試合に臨む。赤井は昨年11月に結婚したばかりで、5ヶ月ぶりの試合とあって5500人もの観客が詰め掛けた。しかし、またも第7ラウンドでのKO負けの後、意識不明に陥る。急性硬膜下血腫、脳挫傷と診断され、大阪市内の富永病院で開頭手術が行われた。搬送時生存率20%、手術後生存率50%と極めて重篤な状態であったが、無事に回復(本人曰く、開頭中に意識が回復し、タオルで包まれた自分の脳を触ったという。触ると強烈な吐き気を催したが、その理由が解らず何度も触っては吐き気を催したと証言していた)。回復後はボクサー復帰も視野に入れていたが、医師からボクサーを引退するように勧告を受け、現役を引退する。

 この生死をさまよっていた時、浪速高等学校ボクシング部の先輩であった藤本義一は、気の早いあるスポーツ紙に追悼文を書くように依頼されたという。しかし、「(まだ死んでもいないのに)冗談じゃない!」と一蹴した。その後赤井は、藤本と出会った際に「ありがとうございました」と、お礼を言ったという。

 引退後、母校・近畿大学のボクシング部コーチなど後継者育成を行っていたが、1988年に映画『またまたあぶない刑事』にゲスト出演し、俳優デビューを飾る。そして1989年に上映された阪本順治監督の『どついたるねん』で主役デビュー。この映画は赤井自身のボクサーとしての半生を絡ませた自伝的作品で、現役最終戦の対戦相手となった大和田も特別友情出演として登場し、その壮絶なファイトを再現した。

 主な出演映画は、『どついたるねん』の他、『幻の光』(1995年)、『十五才 学校IV』(2000年)など。主にキャラクターを生かした熱血タイプの関西人役が多い。ドラマ『高校教師』では、生活指導に厳しい体育教師を演じる。また、『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』では、死に追い込まれた息子の復讐に奔走する父親役を演じて一躍有名になる。

 現在はバラエティ番組にも多数出演しており、タレントしても活躍中である。前妻との間に2女、再婚した妻との間に2男1女がいる。なお、前妻との間に生まれた次女の沙希は、モデル・女優・タレントとして活動している。

 2011年8月7日、日本アマチュアボクシング連盟特別委員会の決定として、プロ経験者のアマチュアボクシング復帰を認める規則により、アマチュアボクシング指導資格の適用第1号となった。


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