アンディ・ウォーホル



アンディ・ウォーホル(Andy Warhol 1928年8月6日生)
 [アメリカ・芸術家]


 本名はアンドリュー・ウォーホラ。ペンシルベニア州ピッツバーグでスロバキアの移民の子として生まれる。兄が二人おり、両親は敬虔なカトリック教徒で、彼自身も同様に育ち生涯を通じ教会へ通った。肉体労働者だった父は1942年、アンディが14歳のときに死去、その後は母のジュリア一人に育てられる。アルバイトをし地元の高校に通う。カーネギー工科大学に進学し広告芸術を学び1949年に卒業。

 大学卒業後はニューヨークへ移り『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』など雑誌の広告やイラストで知られた。1952年には新聞広告美術の部門で「アート・ディレクターズ・クラブ賞」を受賞し、商業デザイナー・イラストレーターとして成功した。

 1962年、マリリン・モンローやコカ・コーラの瓶などをシルクスクリーンで繰り返し転写して並列させた作品により、ポップアートの旗手となる。以降、自らのアトリエを「ファクトリー」と名付けて大量の作品を送り出したのみならず、ロックバンド「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」のプロデュース、60を超える映画製作、雑誌『Interview』の創刊など、1960年代ニューヨークのアンダーグラウンド文化を象徴する存在として活動した。

 1968年6月3日、ウォーホルはバレリー・ソラナスという女性に拳銃で狙撃される。三発発射された弾丸のうち最初の二発は外れ、三発目が左肺、脾臓、胃、肝臓を貫通した。彼は重体となるが、5時間に及ぶ大手術で一命をとりとめる。ソラナスはその夜、警察に自首している。

 ニュージャージー州に生まれたソラナスは、少女時代に父親に虐待された経験があった。優秀であった彼女は大学で心理学を学んだが、大学時代に自分がレズビアンであることを自覚し、ニューヨークに移ってからも売春で生活費を稼ぎながら、全男性の根絶を目的とした「全男性抹殺団」を組織し、フェミニズム活動を行っていた。ソラナスはウォーホルのアトリエ「ファクトリー」の常連であり、ウォーホルに自作の映画脚本を渡したりウォーホルの映画に出演したことがあった。この事件は『アンディ・ウォーホルを撃った女/I Shot Andy Warhol』として1995年に映画化された。

 その後のウォーホルは、社交界に出入りし、著名人の注文による肖像も多数手がけた。1970年には「ライフ」誌によってビートルズとともに「1960年代にもっとも影響力のあった人物」として選ばれた。

 1987年2月21日、ニューヨークのコーネル医療センターで胆嚢手術を受けるも翌22日、容態が急変し心臓発作で死去。58歳。生涯独身だった。ピッツバーグの聖ヨハネ・バプテスト・カトリック共同墓地に埋葬されている。1994年、ピッツバーグにアンディ・ウォーホル美術館が開館。一人の芸術家に特化した美術館としてはアメリカ最大である。





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