マーガレット・ミッチェル



マーガレット・マナーリン・ミッチェル(Margaret Munnerlyn Mitchell 1900年11月8日生)
 [アメリカ・小説家]


 ミッチェルはジョージア州アトランタで生まれた。彼女の幼年期は南北戦争を生き抜いた母方の親類の影響を大きく受けた。彼女は1918年にワシントン女学院を卒業し、その後医学を志しスミス女子大学に入学する。しかしながら1919年1月に母親がその年流行したインフルエンザで死去し、ミッチェルは学業をあきらめアトランタへ戻った。彼女はアトランタで『アトランタ・ジャーナル』に入社し、日曜版のコラム執筆者となった。

 1922年に彼女はベリアン・「レッド」・アップショーと結婚する。しかしながらレッドは酒の密売人であり、彼らは間もなく離婚する。彼女は1925年7月4日にアップショーの友人であったジョン・マーシュと再婚する。ミッチェルはくるぶしの骨折で寝たきり生活を送っていた1926年、『風と共に去りぬ』を書きはじめたと伝えられている。夫のジョン・マーシュは彼女の気晴らしにと図書館から歴史書を借りてくるのだったが、あるとき「ねえ、そんなに本が好きなら、今度は自分で書いてみたら?」と言った。南北戦争の豊富な知識を持っていた彼女は、それを背景として自分の人生体験を叙事詩に綴っていった。マーシュの協力的な姿勢も手伝って、ミッチェルは療養中の楽しみを創作に見出した。

 十年近い歳月を費やして執筆されたミッチェルの小説は、1936年6月30日にマクミランの編集者、ハワード・ラザムよって出版され、翌年ピューリッツァー賞を受賞した。3年後にはデビッド・O・セルズニックによって映画化され、当時としては画期的な長編テクニカラー映画であった事も手伝って、世界的なヒット作となり、アカデミー賞を九部門受賞した。

 ミッチェルは1949年8月11日の晩、マーシュとアトランタのアーツ劇場に行く途中、ピーチツリー街を横断時にヒュー・グラビットという非番のタクシー運転手にはねられた。彼女はすぐに市内のグレーディ記念病院に運ばれたが、この事故の際の傷が元で5日後に死去した。グラビットは飲酒運転であり、過失致死で有罪となり、40年の重労働が宣告された。

 グラビットはタクシー運転手だが、当日は非番で自家用車を運転していたのであり、ミッチェルはタクシーにはねられたのではない。しかし報道はこれをタクシー事故として煽りたて、ジョージア州のハーマン・タルマッジ知事(当時)は、以後タクシー運転手の認可規制強化を発表するまでに至っている。

 この事故の目撃者は、ミッチェルが確認せずに道に飛び出したと証言しており、彼女の友人は彼女がしばしばそのような振る舞いをしたとしたため、運転手の有罪についてはいまだ論争となっている。

 マーガレット・ミッチェルはアトランタのオークランド墓地に埋葬された。生涯で発表した作品は『風と共に去りぬ』のみで、彼女の遺志により未発表の原稿は破棄されたと言われる。ミッチェルが執筆当時住んでいた家はアトランタの中心部にあり、今日ではThe Margaret Mitchell Houseとして観光名所となっている。

 1949年8月16日死去(享年48)


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