坂井宏朱



坂井宏朱(さかいひろみ 1984年2月25日生)
 [オートレーサー]


 石川県出身で神奈川県横浜市に育つ。クラシックバレエ歴15年、チアリーディング歴3年。神奈川県立横浜立野高等学校を経て、法政大学法学部政治学科を2007年に卒業。法大時代は、野球部のマネージャーを務めた。その後、旅行代理店・JTB法人東京に入社。

 2008年のスーパースター王座決定戦開催日に川口オートレース場へ観戦に行った際に、後に自身の指導員(師匠)となる永井大介の走りに感銘を受け、当時自動二輪どころか、原付免許すらも取得していなかったが、オートレース選手になることを決意し、両親の猛反対を押しきって受験。2010年6月24日、佐藤摩弥とともに、女子受験者としてオートレース第31期養成員試験に合格した2人のうちの1人となった。合格発表後にJTBを退社し、同年9月、茨城県下妻市に所在するオートレース選手養成所に入所した。このことは、フジテレビ系列の『潜入!リアルスコープ』やTBSの『Nスタ』などでも放送された。

 2011年3月11日、正式に船橋オートレース場への配属が決定。7月8日に養成所を卒業し、佐藤と共に44年ぶりの女子オートレーサーとなった。指導員には、師匠でもある永井とともに、SG8勝の池田政和も助手として協力し、7月30日に船橋オートレース場でデビュー(8着)し、8月21日の同場で初勝利を挙げた。

 2012年1月15日、船橋オートレース場で第1R一般戦に出走して6着となり、全レース終了後、午後4時5分過ぎからの走行練習中に参加したが、この時に悲劇が起こった。ホーム直線を通過して加速した際に不正振動を起こして姿勢を制御できなくなり、バイクから放り投げられ滑走し、第1コーナーコース脇にあった観客防護用の二重フェンス内側に衝突する。その直後、不運にも後方から自分の競走車が同じ方向に滑走し、坂井もろともフェンスに激突してしまった。現場のフェンスは事故の衝撃により内側の金網が大きく凹んで外側の鉄パイプにまで達してパイプが曲がってしまい、坂井の愛車もフレームの中央が破断して真っ二つになったほどで、激しい衝撃を受けていたことが伺える状況だった。

 坂井は重度の全身打撲や頭蓋骨骨折などにより耳、鼻から出血、腹部も膨らんでいた状態だったという。すぐに医務室に運ばれるや、心臓マッサージなども施されたが、手当のかいなく午後5時13分に死亡が確認された。まだ27歳の若さで、レースデビューからわずか半年での殉職となり、通算成績は22戦1勝と上述の初勝利が生涯唯一の勝利となった。最後となってしまった12日付のブログでは「明日も練習して、少しでも改善したいと思います」と綴られていた。

 同期の佐藤摩弥と共に、多くのメディアで取り上げられるなど注目を集めた功績が評価され、オートレース平成23年度表彰「特別賞」を受賞し、2月14日の表彰式に参加を予定していた矢先の不幸であった。

 事故発生後の当日夜、競走に参加していた師匠の永井大介・同期の青山周平らや、参加していなかった佐藤摩弥など他の選手も集まって事故現場において献花し、翌日には場内に一般ファン向けの献花台が設置され、第1Rの試走直後に関係者全員で坂井に対し黙祷を捧げた。葬儀は1月19日に東京・芝公園の増上寺光摂殿で営まれ約400人が参列、その中で坂井が生前に臓器提供の意思を表していたことから、事故で受傷しなかった角膜が2人の受給者に提供されたことが明らかにされた。戒名は一道院宏髄浄安大姉。

 当時、公営競技全体の売り上げが低迷し、更に事業仕分けの対象にあった財団法人JKAは、オートレースの存続危機まで囁かれていた。そんな折に「オートレースに44年ぶり女性選手復活」は、オートレース業界にとって久々に明るい話題だっただけに業界的に大きな痛手となった。一方で、話題作りのために、まだ技量的に未熟だった彼女を見切り発車でデビューさせたJKAに対する批難の声もあった。

 2012年1月15日死去(享年27)


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