大辻司郎



大辻司郎(おおつじしろう 本名:大辻四郎 1896年8月5日生)
 [活弁士/漫談家]


 東京出身。株屋の店員を経て活弁士の染井三郎や柳思外に師事。浅草帝国館で初舞台。活動写真の弁士を目指し、独学で1916年に外国映画の弁士としてスタート。きっかけはその年の徴兵検査で甲種合格したことで兵役から逃れる為だったという。喜劇専門の弁士として活躍。独特の奇声で喋る『勝手知ったる他人の家』、『胸に一物、手に荷物』、『ハラハラと落つる涙を小脇に抱え』といった珍妙なフレーズで一躍、人気弁士として躍り出る。その頃、同じく弁士として第一線で活躍していた徳川夢声と出会う。夢声をして天才と言わしめるほど話術で観客を笑わせ、また本人も弁士としてよりも独立した喋りで寄席に進出する事を考える。

 1923年に発生した関東大震災で東京に映画館が使用不可となったことから、弁士が一時休業状態となったのを機に、夢声や3代目柳家小さんの後押しで、「語る漫画」の意の「漫談」という言葉を作り、1924年に漫談家として再スタート。「アノデスネ。ボクデスネ」で一世を風靡した。1926年に夢声が音頭をとり、古川緑波、山野一郎と共にナヤマシ会を結成。この会は1932年までに9回公演し、大辻は天才的な即興芸で観客を大いに湧かせた。1933年には緑波、夢声と共に笑の王国を結成した。

 1952年3月31日、旧活弁仲間による活動大写真を偲ぶ夕に司会役として出席、ここでも大いに湧かせたが、4月9日、搭乗した日航機・もく星号(羽田発名古屋・伊丹経由福岡行き)が羽田を午前7時42分に離陸した直後に消息を絶ち、翌日の朝に捜索活動によって、伊豆大島の三原山山腹に墜落しているのが確認された。

 この飛行機には、大辻司郎の他に八幡製鐵社長の三鬼隆などの著名人も搭乗していた。また当時、飛行機は運賃が他の公共交通に比べ高い乗り物だったため、もく星号の乗客も社会的地位が比較的高い人間ばかりであり、日立製作所の取締役や石川島重工の役員、ハワイのホテル支配人、炭鉱主、国家公務員などがいた。彼らを含む乗客・乗務員37名全員死亡という、当時としては大規模な航空事故となった。

 しかし、消息を絶ってから残骸となって発見されるまでの間は、マスコミや警察等の関係当局も情報をほとんど手に入れることができず、そのため多くの未確認情報が錯綜し、「海上に不時着」、「アメリカ軍機が生存者を発見」、「乗客全員無事」などの誤報が次々に打たれた。特に長崎県の地方紙『長崎民友新聞』は事故の翌日の紙面で「危うく助かった大辻司郎氏」という写真付きの記事を掲載。「漫談の材料が増えたよ――かえって張り切る大辻司郎氏」という見出しで大辻の談話を載せた。これは、上記の「乗客全員無事」という「ニュース」を知った大辻の秘書が、同新聞に連絡する際に気を利かせすぎて捏造した話だったという。なお大辻は長崎民友新聞が開催する「長崎平和復興博覧会」の会場内の劇場で漫談を披露する予定だった。

 墜落原因をめぐっては、当時はまだフライトレコーダーやボイスレコーダーが装備されていなかった上、当時の航空管制や事故捜査は連合国軍(実質的には在日アメリカ軍)の統制下にあったため、墜落事件の詳細は今もって不明な点が多い。なお、推測される主な墜落原因としては、アメリカ人パイロットによる操縦ミス説や、当時同区域の管制を行なっていたアメリカ軍の管制ミス説がある。また、後に機長(当時36歳)を空港まで送ったタクシー運転手による証言から機長飲酒説も挙げられているが、最終的に墜落原因は特定されないまま捜査は終了した。

 1952年4月9日死去(享年55)


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