アベベ・ビキラ



アベベ・ビキラ(Abebe Bikila 1932年8月7日生)
 [エチオピア・陸上競技選手]


 当時のショア州にあるデュノバのジョル村で生まれる。家は貧しい小作農で、家族は当時の国教であるキリスト教コプト派(エチオピア正教会)の信者でもあった。小学校には1年通っただけで早くから家業の手伝いをしていた。19歳の時、皇帝ハイレ・セラシエ1世の親衛隊に入隊し、アディスアベバの部隊で訓練を受けることとなる。10ヶ月の訓練期間の後、当時エチオピアが参加していた国連軍として、朝鮮戦争に従軍するため釜山まで派遣されるが、ほどなく休戦となり帰国した。

 帰国後、親衛隊で訓練の一環として各種スポーツのトレーニングを受ける。その中で、足の速さが上官から注目されるようになる。1957年5月、四軍(陸海空および親衛隊)の陸上競技大会に親衛隊から選抜されて出場、マラソンで2位となり、ローマオリンピックの陸上強化選手に選ばれる。ここでスウェーデン出身の専任コーチであるオンニ・ニスカネンの指導を受ける。ニスカネンはクロスカントリーやインターバルトレーニングを取り入れた科学的な練習を施した。ニスカネンはローマオリンピックのマラソンコースを視察すると、それに似た練習コース(フルマラソンより1km長い)をエチオピアのキャンプ地近くに作って走らせた。

 強化選手となった当初はアベベは目立った選手ではなく、親衛隊で同期だったワミ・ブラトの方が長距離選手としては期待されていたが、アベベは7月にローマオリンピックの国内予選会で2位となり、マラソン代表に選出された。

 1960年9月のローマオリンピックに際しては、偶然に靴が壊れたため(さらに現地で新しい靴を買おうと思ったが自分に合うものがなかったため)裸足で走ることとなった。もともとアベベは子どもの頃から裸足で山野を走り回っており、足の裏の皮は厚く、裸足で走ることに慣れていた。アベベは15kmを過ぎて先頭集団に入り、30kmでトップに出るとあとはそれを譲ることなく、当時の世界最高記録となる2時間15分16秒2で優勝した。レース前には全く無名で、アベベが先頭集団に加わると「あれは誰だ」という声が沿道からあがり、プロフィールにもほとんど記載のないアベベがゴールのコンスタンティヌス凱旋門に入ってきたとき各国の報道関係者も騒然となった。アベベはゴール後に「まだ余力はある。走れと言われればもう20kmぐらい走れる」と話した。

 1937年から1941年までイタリアに侵略、占領されていたエチオピア国民は、アベベの優勝に熱狂し、アベベはエチオピアの英雄となった。この功績により、帰国したアベベはハイレ・セラシエ皇帝に拝謁し、勲章を授与された。また半年後には兵卒から兵長に昇進している。

 アベベの優勝は、アフリカの高地民族が長距離走への適性を持つことを世界に知らしめた。また、エチオピアの国土が空気の薄い標高2000m前後の高地にあり、そこでトレーニングを積んだことで心肺機能が高められたのではないかという見解が示され、陸上競技に高地トレーニングが導入されるきっかけとなった。

 オリンピックチャンピオンとなったアベベには世界からレースへの招待状が届いたが、ニスカネンはその中から出場レースを慎重に選んだ。その一つに日本の毎日マラソン(現・びわ湖毎日マラソン)が含まれていたのは、次回のオリンピック開催国を下調べするチャンスという意図があった。このレースではコースに入ってきた大群衆や対向車線の車、オートバイ、それに気温27度・湿度77%という悪条件が重なり、レース中に立ち往生するというアクシデントもあって、優勝はしたもののタイムは2時間29分27秒と平凡だった。2位には同僚のワミが入っている。このレースの際もアベベは裸足で走ることを主張したが、表敬訪問した鬼塚株式会社社長鬼塚喜八郎が「日本の道路はガラス片などが落ちていて危ない。軽いシューズを提供するから履いてくれ」と説得したことにより、アベベはオニツカ製のシューズを履いて参加した。鬼塚はその後もアベベのもとにシューズを贈り続けていた。しかし、当時は特定のスポーツ用品メーカーとの専属契約という概念がなく、東京オリンピックの際にはプーマのシューズで参加し、鬼塚を苦笑させている。

 1961年には出場した3つのレースすべてで優勝を飾ったが、1962年はレースに出場せず、1963年のボストンマラソンは5位とふるわなかった。国民の期待や、走ることで得た地位から来る重圧があった。

 1964年春、アベベは軍曹に昇進した。5月にアディスアベバで1年ぶりにマラソンを走って優勝。8月の東京オリンピックの国内予選では自己2位となる2時間16分18秒8で優勝し、代表に選ばれる。しかし、競技の6週間前に盲腸の手術を受け、ニスカネンの立てた練習スケジュールは大きく狂った。このため、日本の代表選手のコーチたちも「アベベはマークの対象にしていなかった」とのちに語っている。アベベはエチオピア選手団の一員として9月29日に来日し、選手村や隣接した織田フィールドで毎日走った。10月10日の開会式ではエチオピア選手団の旗手を務めている。

 10月21日の東京オリンピックマラソン本番では、20km地点辺りから独走態勢に入り、全く危なげのないレース運びで、2時間12分11秒2の世界最高記録で再び金メダルを獲得した。アベベはゴールした後に疲れた様子も見せずに整理体操を始め、7万人の観衆を驚かせた。後にアベベは「まだあと10キロは走れた」と語っている。近代オリンピック史上、マラソンの種目で二連覇はアベベが初めての快挙であった。それ以後、オリンピックのマラソン競技で世界(最高)記録を樹立したランナーは出現していない。

 再度の金メダルにより、アベベは少尉に昇進する。また、親衛隊の体育教官補佐ともなった。このときアベベに貸与された自動車(フォルクスワーゲン・ビートル)がのちに悲劇につながることとなる。

 東京オリンピック後もアベベはマラソンで優勝を重ねた。1965年には、大阪府から滋賀県にコースを移した毎日マラソンに4年ぶりに参加、28度の高温という条件のため記録は平凡だったものの、独走であった。1966年のソウル国際マラソンでも優勝した。1967年のサラウスマラソンでは途中棄権した。この間、中尉に昇進している。

 1968年10月のメキシコシティオリンピックでも、アベベは3大会連続でエチオピアのマラソン代表に選ばれたが、トレーニング中に左膝を痛めていた。走り込みの不足や36歳という年齢による体力の衰えもあり、史上初の五輪マラソン3連覇は不安視されていた。結局メキシコ五輪マラソン本番では16kmで歩き出し、17km地点で棄権した。なおこの大会では同じエチオピア出身で同僚のマモ・ウォルデが優勝し、エチオピアにオリンピック3連覇をもたらしている。結果は残せなかったものの、アベベは帰国後にマモとともにハイレ・セラシエ皇帝に招かれ、その席で大尉に昇進した。

 しかし、メキシコ五輪から約半年後の1969年3月23日の夜、アベベはアディスアベバから北に約70km離れたシャノという町の北方で、自動車運転中に崖下に転落する事故を起こす。生命に別状は無かったが、第七頸椎が完全に脱臼する重傷を負ったことにより、下半身不随となってしまう。なお国民に動揺を与える不安から、事故の事実は6日後になって初めて公表された。事故後にアベベが語ったところでは、対向車の前照灯に目がくらんで運転を誤ったという。これについてはアベベを妬む者の陰謀説が存在するが真相は今も定かではない。

 アベベは事故公表直後にロンドン郊外のストーク・マンデビル病院に入院し、8ヶ月間治療とリハビリテーションを受ける。その治療はマラソンのトレーニング以上に過酷なものであったと家族に語ったという。この間、ストーク・マンデビル競技大会(のちのパラリンピック)に参加、翌1970年の大会は総監督として参加した。1971年にはノルウェーで開催された身障者スポーツ週間の犬ぞりレースに参加して優勝を果たしている。

 1972年9月のミュンヘンオリンピックでのアベベは、組織委員会から過去の著名な金メダリストの一人として招待を受け、車いすの姿で開会式にゲスト出演し、その後も会場で競技を観覧している。自らが動けないことで「競技を見るのが辛かった」とのちに妻に語ったが、マラソンで同エチオピアのマモ・ウォルデが3位に入り銅メダルを獲得、アベベと同じく五輪二大会連続メダリストの快挙を大いに喜んでいた。

 晩年のアベベはこのように体が不自由な状態ながらも、生涯スポーツに関わり続けようとしていた。しかし、ミュンヘン五輪からわずか1年後の1973年10月25日に、脳出血により首都アディスアベバにある陸軍病院にて病死。まだ41歳の若さだった。因果関係は明確ではないものの、自動車事故の後遺症が脳出血の遠因であるとみられた。

 1973年10月25日死去(享年41)





w友達に教えるw
[ホムペ作成][新着記事]
[編集]

無料ホームページ作成は@peps!
無料ホムペ素材も超充実ァ