荒木虎美



荒木虎美(あらきとらみ 1927年3月9日生)
 [妻子殺害の被告人]


 1974年11月17日午後10時頃、大分県別府市の国際観光港第三埠頭で、時速40kmほどで走ってきた日産サニーが海面に転落。47歳の不動産経営者・荒木虎美は海面を泳いでいるところを救助されたが、彼の妻(当時41歳)、長女(当時12歳)、次女(当時10歳)は溺死した。

 死亡した3人には月々の掛け金は十数万円(当時の国家公務員の初任給の2倍に相当)をして3ヶ月の掛け金だけで計3億1000万円と高額の保険契約が結ばれていたことから、保険金殺人の疑惑が浮上。また、死亡した3人の他に長男(当時15歳)にも保険金をかけておきながら、荒木自身の死亡に関しては保険金を全くかけていなかったことが発覚した。

 荒木は大分県の農家に生まれた。津久見工業学校を卒業後、新制中学の代用教師となったが、1950年に家屋に保険金をかけて放火した保険金詐欺で最高裁で懲役8年(恩赦により6年)の有罪判決を受けて服役した過去があり、他にも恐喝罪(1949年に自らの情婦を医師に頼んで堕胎させておきながら、その医師を医師法違反などで恐喝した)や傷害罪(服役後に不動産業を友人で共同経営したが、その友人の妻をめぐってトラブルを起こした)で度々服役していたため、「九州一のワル」と呼ばれていた。

 1972年11月に宮崎刑務所を出所後、次々と女性と付き合い、保険金殺人の獲物を物色していた。1973年6月頃、「子どもが大好きなので、母子家庭の母親と結婚したい」と言って、結婚相談所や町内の民生委員などを訪ね、女性を紹介してくれるように頼んで回っていたという。その結果、生活保護を受けながら、3人の子どもを育てていた彼女と知り合い結婚し、その直後から、いろんな口実をつくって、妻子たちに保険をかけ始めた。また、この頃、荒木は水泳の練習を始めている。

 最後の保険契約から12日後の11月17日夜、家族で死のドライブへ出掛けることとなる。なお、長男の証言から3人が死亡したドライブを提案したのは荒木だったこと、長女がドライブを断ろうとすると荒木が怒ったことが判明している。長男も荒木からドライブを誘われたが、受験勉強を理由に断ったため難を逃れた。

 荒木は「自分と妻が交互に運転していたが、妻の運転中に自分が助手席で目を瞑っていた際に、運転していた妻が大きな悲鳴に目を覚ました時には既に自分は海中にいて、割れたフロントガラスから夢中で抜け出した」と主張。荒木は妻の運転による事故であるとして保険会社に保険金を請求するが、保険会社は「警察の交通事故証明がなければ支払えない」と拒否。警察は「事故が作為的かどうか判然としない限り出せない」と交通事故証明交付を拒否した。その頃から、保険金殺人の疑惑があるとしてマスコミが報道して劇場型犯罪の様相を見せていた。カラーテレビ普及後の日本において、警察が逮捕する前から保険金殺人疑惑をセンセーショナルに先行報道した最初の事件と言われている。

 また、荒木は運転していたのは妻だと主張していたが、実際には荒木自身が運転していたのではないかと思われる疑惑が浮上。警察は逮捕前から、荒木を取り調べ同然の事情聴取をし続けた。荒木は保険金殺人疑惑を報じるマスコミを巻き込んで、「死ぬかもしれない危険を冒してまで保険金殺人をするわけがない。できるというのなら、お前もやってみろ」と保険金殺人を否定した上で、自分に保険金が入ることの正当性を主張した。

 12月11日、荒木はワイドショー番組「3時のあなた」に生出演。背景には死亡した3人の大きな写真が飾られたセットで、司会者の寺島純子、ゲストの作家戸川昌子や推理小説家の大谷羊太郎を相手に荒木は身の潔白を主張するも、ゲストの鋭い指摘に荒木は堪えきれずに途中退席した。この番組収録終了後の同日午後5時40分にテレビ局裏で荒木は殺人罪容疑で逮捕された。

 海中から引き上げた乗用車の調査や裁判での証人から以下のことが明らかになった。
・車の鑑定で妻の膝に付いた傷と助手席ダッシュボードの傷跡が一致
・車に付いている水抜き孔のゴム栓が全て取り外されていたこと
・運転席前のルームミラーが固定式のものから脱落式のものに取り替えて、外れやすくなっていた。
・車のダッシュボードに窓ガラスを割るために用意したとされる金ヅチが入っていた。
・事件当夜に事件現場の手前の信号機で停まっていた日産サニーの運転席に荒木が座っていたとする鮮魚商の男性の証言
・「家族に保険金をかけて車ごと海に飛び込み自分だけ助かる手法で保険金を手に入れること」を荒木から打ち明けられていた刑務所仲間の証言
しかし、これらは重要な証拠ではあるが、決定的直接証拠とまでは言えなかった。

 一審で、荒木は涙を見せた。保険金がかけられながらも死を免れた長男が証言台に立った時のことである。しかし、長男はその際に「あの男を死刑にして欲しい」「お前がやったんだ!」と発言した。

 1980年3月28日、大分地裁は「故意に車を海に転落させ、善良な母子3人を殺害した。計画的かつ冷酷残忍な犯行である。」として荒木に死刑判決を言い渡した。控訴をするも、1984年9月、福岡高裁は控訴を棄却し、死刑判決を維持。1987年、荒木は癌に倒れ、八王子医療刑務所に移送された。

 上告中の1989年1月13日に荒木は癌性腹膜炎で死亡した(自殺説あり)。荒木の死を受けて、最高裁は「被告人死亡につき公訴棄却」とし、真相は永遠に闇の中へと消えた。

 当初からこの事件の裁判は「死刑か無罪か」と言われた。もし無罪であれば保険金で億万長者、有罪であれば死。まさに天国と地獄となる。状況証拠しかなかったにもかかわらず、荒木に一審・二審と死刑の有罪が出たのは、不可解な保険金という金銭的動機が容易に予想されたことだけでなく、短気な性格だった荒木が裁判中に不利な証言をした証人を罵倒するなどして、裁判官の心証を限りなく悪くしたためと言われている。

 ちなみに、事件から2年後の1976年10月10日、公判中だった荒木の証言に疑問を持った福岡市に住む35歳の男性が、友人にカメラで記録してもらいながら、事件現場の岩壁から時速40kmで海に飛び込む実験を行っている。脱出に成功した男性は「計画的な場合はほぼ助かることが実証できた。裁判の証人になってもいい」と語った。この実験は捜査資料として正式に採用されている。

 1989年1月13日死去(享年61)


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