土志田和枝



土志田和枝(どしだかずえ 1950年生)
 [横浜米軍機墜落事件の被害者]


 1977年9月27日13時過ぎ、厚木海軍飛行場(厚木基地)を離陸し、太平洋上の航空母艦・ミッドウェイに向かおうとしたアメリカ海軍の戦術偵察機(RF-4BファントムII611号機)が、離陸直後に燃料満載の状態でエンジン火災を起こした。乗員2名は機外に緊急脱出し、パラシュートで神奈川県横浜市緑区(現・青葉区)鴨志田町付近に着地したのち、航空救難団に収容されて基地に無事帰還した。一方、放棄され制御を失った機体は5kmほど離れた同区荏田町(現・青葉区荏田北三丁目・大入公園付近)の住宅地に墜落し、周辺の家屋を炎上させた。

 事故発生から10分後に出動した自衛隊は、脱出したパイロット2名の「救出活動」のみをおこなった後、ただちに厚木基地へ帰還した。米軍関係者は約1時間後の14時20分頃に現場に到着し、真っ先に現場周囲の人たちを締め出したのち、エンジンなどを回収。この作業の際には笑顔でピースサインを示して記念撮影をおこなう兵士もいたという。

 墜落地周辺では、大破した機体と大量のジェット燃料が飛散し、火災により一般市民9名が負傷、周辺の人々により次々に車で病院に搬送されるも、うち土志田和枝(27歳)と長男(3歳)と次男(1歳)は全身火傷で重体であった。長男は「痛いよ、痛いよ、水をちょうだい」と嘔吐しながら次第に弱っていき、「おばあちゃん、パパ、ママ、バイバイ」と言い残して翌日未明に亡くなった。次男も父親らの励ましの中「鳩ポッポ」をかすかに歌いながら息を引き取ったという。

 母親の和枝は、「兄弟は他の病院で頑張って治療を受けている」という言葉を信じ、それを励みに皮膚移植手術を繰り返しながら長期間にわたる厳しい治療を乗り越え、一時はリハビリを行なえるまでに肉体的には回復した。事件から1年4ヶ月後に愛児の死を知らされ、一時は精神的なダメージを負ったが、「子どもの分まで生きる」と決意し、徐々に体力も回復して松葉杖を使って歩けるようになった。

 その後、和枝が事件の経緯や国の不誠実な態度に抗議をすると、国は訴えを受け付けないばかりか、和枝を精神病者扱いにし、家族にも適切な説明もしないまま、最終的には精神科単科病院に半ば強制的に転院させられたという。そして、事件から4年4ヶ月後の1982年1月26日に、心因性の呼吸困難により死亡した。当時、NHKのアナウンサーは、涙ながらにこのニュースを伝えている。

 1982年5月、入院中に和枝が記していた日記を基にした著書『あふれる愛に』が出版された。

 1985年、遺族の要望により、横浜市へ寄贈する形で港の見える丘公園フランス山地区に、犠牲者をモデルとした「愛の母子像」というブロンズ像が設置された。行政側は当初、都市公園法の解釈を理由に、本件に関わる説明の設置を認めず、遺族側が「あふれる愛をこの子らに」と予定していた台座の文に関しても同法に抵触すると主張。妥協として「この」を削った「あふれる愛を子らに」とされ、予備知識がない限り本件の記念碑であるという認識が困難な状態が続いていた。 そのため一部市民から疑問の声が相次ぎ、2005年2月、当時の横浜市市長・中田宏が定例記者会見の中での回答以降、翌2006年1月に事件の概要を簡潔に記述した碑文が設置されたが、像設置から碑文設置まで約21年の歳月が費やされた。

 1982年1月26日死去(享年31)


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